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2008年7月

若葉マークの源氏物語ブログ別館「千年前から恋してる!」始まります

このほど「若葉マークの源氏物語ブログ」に別館を設けました。
その名も「千年前から恋してる!」。源氏物語千年紀に合わせ、書き下ろしました。

光源氏の誕生から死まで、その生涯を登場人物の悩み相談の形で読み進めていきます。千年前もいまも人々の悩みに変わりはありません。共感したり、不思議に思いながら、気軽に源氏物語に触れていただければと思います。

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宇治の姫君

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源氏物語に登場する宇治は平等院や宇治神社界わいと考えられている。流れの速い宇治川をはさみ、周囲にはなだらかな山が迫る、緑豊かなところだ。

都市化が進んだ現代ですらこの姿である。平安時代はいまよりも寂しく、まさに山里という雰囲気だったに違いない。八宮がこの地に移り住んだときは「隠遁」ということばにふさわしい、人里離れたところだったはずだ。そんな土地に住んでいた中君や大君、あるいは浮舟の心細さはどれほどだっただろう。それを考えると、薫を信頼しながらも匂宮に惹かれていった浮舟の気持ちもわかるような気がするのだ(写真は朝霧橋たもとの宇治十帖モニュメント 匂宮と浮舟)。

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紫式部は宇治の空気を見事に物語に反映させている。彼女は宇治を訪れたことがあったのだろうか。実際に訪れたことはなくても、宇治に別荘を持っていた道長さんから寝物語にでもその様子を聞かされたことがあったのかもしれない。

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写真は宇治橋たもとの紫式部像。

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宇治 平等院

平安時代、宇治は嵯峨野とともに貴族に人気の高い別荘地だった。いずれも都からほどほどに離れ、風光明媚だ。嵯峨野は都から3時間ほど、宇治はさらに時間がかかったと考えられる。いまでいえば、大阪の人が湖北のあたりにセカンドハウスを持つような感覚だろうか。

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宇治のシンボル的存在でもある世界遺産の平等院も貴族の別荘のひとつだった。源融の持ち物だったという説と、陽成、宇多、朱雀天皇から宇多天皇の皇子・源雅信に受け継がれたという説がある。いずれにせよ、その後この別荘は藤原道長さんの手に渡り、息子の頼通さんの代になって、寺院とされた。

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源氏物語中、これをモデルとしていると思われるのが光源氏から夕霧に伝えられた宇治の別荘である。「椎本」の巻で、匂宮が初瀬詣の際に宿泊したところだ。宇治川をはさんだ対岸には宇治八の宮の山荘があった。こちらは宇治神社(=写真)あたりかと考えられる。

平等院は屋根上に鳳凰をいただき、鳥が羽を広げたような構造が美しい。阿字池にその姿が逆さに映る。創建当初は極彩色で青い空に朱塗りの建物が映え、華やかだったに違いない。

平等院創建当初の姿はCG映像で再現したものを平等院ミュージム鳳翔館で上映している。中堂は極彩色に彩られ、金色の阿弥陀如来像とともに極楽浄土の世界が表現されていた。

ミュージムでは鳳凰の実物(いま屋根にいるのはレプリカ)や、国宝の梵鐘、雲中供養菩薩26体なども間近に見ることができる。さまざまなポーズをとる雲中供養菩薩は躍動感にあふれ見ていて飽きない。私の好きな仏像群だ。

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写真は椎本の古跡のある彼方神社。宇治には好事家が建立した宇治十帖の古跡が点在する。

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「源氏物語に見る 王朝貴族の失敗学25」 出生の秘密を知ってしまった!(2)

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写真は京都御所・紫宸殿

■真の父を知った少年帝の悩み

藤壺宮の葬儀が済み、法事も終わって御所には平素の落ち着きが戻ってきました。人の死はこうして一段落付いたころになって、じわじわと寂しく感じるものです。藤壺の息子、冷泉帝も母の死を改めて実感しているころのこと。藤壺の生前から仕えてきた僧がいました。この人は70歳を過ぎていますが、冷泉帝も幼少時からなじみ、信頼も厚く、いつも御所に召されていました。

ある夜、この僧が「申し上げにくいことではございますが…」と改まって冷泉帝に切り出した話がありました。何ごとか、と尋ねると途中まで語りながら、なかなか続きをいおうとしません。「子どもの時からあなたを知っているのにこんな風に隔てを置くなんて恨めしく思うぞ」と冷泉帝がいうと「実は過去来世に渡る重大なお話です」と続けます。

僧が語ったのは冷泉帝が生まれる前のこと。藤壺は深く嘆く様子で僧に祈祷を依頼したのです。その後、光源氏が須磨に退去したときにも、冷泉帝が即位するときまで、続けた祈祷があったといいます。続きを聞いて冷泉帝は驚愕しました。

僧は、冷泉帝の出生の秘密を知っていたのです。いままで何年も胸の奥深くに締まっていましたが、藤壺が亡くなったいま、冷泉帝がこの事実を知らなければむしろ罪を作るのではないかと考え、あえて真実を告げたのでした。冷泉帝はしばらく、ことばも出ませんでした。この事実はこの僧と藤壺の女房だった王命婦しか知りませんが、僧は最近天変地異が起こり、身分の高い人の死が続いたことで、天の怒りを感じて冷泉帝にこれを告げたのでした。

さらにその翌日、光源氏の叔父の式部卿宮が亡くなり、いよいよ世は穏やかならぬ様子です。御所を訪れた光源氏に、冷泉帝は退位をほのめかします。もちろん、光源氏は思いとどまるよう説得します。その顔を見て「やはり自分とよく似ている」と冷泉帝は改めて感じるのでした。「この人が父か」と思えば、いつもとは気持も違い、慕わしく思います。その気持を少しでも伝えたいと思いながら、それは出来ないのでした。

その後も冷泉帝は思い悩むのでした。当然でしょう。冷泉帝は帝とはいえ、まだ十代前半の少年です。様々な書物でこのような事例を調べます。中国では皇統が乱れた例がたくさん見つかりましたが、日本では発見できません。いったん源氏になった人が再度親王になって即位する例は見つかりました。冷泉帝はいっそ光源氏に譲位しようかとも思います。ここで冷泉帝の悩みを改めて確認しておきましょう。冷泉帝は自分が母と光源氏との不義の子だと悩んでいるわけではないのです。父が自分の臣下にいることが問題だと考えているようです。ちょっと不思議な気がします。

そのあとの、冷泉帝が光源氏に譲位をほのめかす場面で、いつもと変わらぬ様子でそれを断る光源氏の様子を冷泉帝は残念に思っていると述べられています。冷泉帝は、光源氏と父子の名乗りを上げたかったのではないかと思われます。とまれ、光源氏はそれを拒み、二人の関係は表面上大きな変化はなく推移します。

僧が冷泉帝の出生の秘密を明かしてしまったのは、僧の失敗かもしれません。あるいは、僧に口止めしなかった藤壺の失敗かもしれません。でも、こうやって冷泉帝が本当の父を知ることは、光源氏が栄華を極めるために必要なことでした。そのお話はもう少し先のことになります。(この項終わり)

※本稿は関西インターネットプレス(KIP)より転載いたしました。

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「源氏物語に見る 王朝貴族の失敗学25」 出生の秘密を知ってしまった!(1)

■永遠の恋人、藤壺との永別

光源氏32歳の春。前回、明石の君が大堰にやってきてから、少し時間が経ちました。あれから、光源氏の身の回りにはまた、変化がありました。大堰にいた明石の姫君はある雪の日、母と別れて二条院の紫の上のもとへ連れてこられました。

将来帝のお后にするためには、いくら光源氏の令嬢といえども、身分の低い明石の君のもとで育てるわけにはいきません。宮家の姫君である紫の上の養女になり、将来に備えることになったのです。明石の君と娘の雪の日の子別れはとても切なく、名場面のひとつですが、それはまた別の機会ということで。

若木が伸びゆくような明石の姫君に対して、人の死もいくつかありました。ひとつは、太政大臣の死。葵の上や頭中将の父で、光源氏には義理の父に当たります。長い間政治の枢要にあり、帝からも重用されていましたが、老いには勝てず、世を去ってしまいました。

そしてもう一つ、光源氏をこの上なく打ちのめしたのが、藤壺の崩御です。藤壺は春の初めごろから病気で伏せっており、三月には重篤な病状になっていました。折りしも彼女は37歳。当時の女性の厄年でした。冷泉帝も光源氏も気が気ではなく、見舞いに行ったり、祈祷をさせたりと右往左往しています。

藤壺は光源氏にとって永遠の恋人。胸の奥にはいまも彼女への思いが燃え続けています。出家してしまったため、その思いは抑えて来ましたが、せめてお見舞いだけでも彼女の元を訪れました。しかし、容態は思わしくなく、ずいぶん衰弱していると女房から聞かされます。几帳の奥からはかすかすに藤壺の声が聞こえます。「このようなご様子では私も長くは生きられないような気がします」などと光源氏が訴えている間に、藤壺は灯りが消えるようになくなってしまいました。

この、藤壺との永別のシーンは、紫式部から光源氏へのプレゼントではないかと私は考えています。初恋の、そして永遠の恋人の死に立ち会うことによって、光源氏の心の中にひとつのピリオドが打てたのではないでしょうか。もし、藤壺の死を人づてに聞くだけであったら、光源氏はいつまでもその死を実感できなかったと思います。

もちろん、光源氏の嘆きは一通りではありません。折から、桜の咲く季節。桜を見て「ことしばかりは」とつぶやく光源氏。これは古今集の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」という人の死を悼む、上野岑雄の歌の一部を口ずさんだものです。京阪電車をご利用の方なら「深草」と「墨染」が読み込まれているのに気づかれるでしょう。(次回へ続く)

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写真は季節はずれですが京都御所、雨に濡れそぼつ桜 墨染の桜をイメージして

※本稿は関西インターネットプレス(KIP)より転載いたしました。

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鍵善良房のくずきり

京都の夏は暑い。大阪も暑いけど、暑さの質が違うような気がする。大阪の夏はひたすらだらけていくような暑さだが、京都の暑さは「しっかりせんとあきまへんえ」と叱咤されているような気がする。もちろん、それでも暑いときは暑いけど。

で、暑い京都の夏を涼やかに過ごすいくつかの知恵がある。鴨川の床、貴船の川床、そして冷たいもの。冷たい甘味の定番が鍵善良房のくずきりだ。本店は祇園北側にある。いつもたくさんのお客さんが訪れて賑わっている。ある時お店を訪れたら、折悪しくその日は月曜日。定休日だった。

だけど、暑さに煎られたからだはひたすらくずきりの冷たさを求めている。くずきり以外のものは頭に浮かばない。そこで、もう一つの店、高台寺店を目指して歩くことにした。祇園からは10〜15分ほど歩かなければいけないけれど、頭の中はただくずきりが渦巻いていたのだ。

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ようやく高台寺店にたどり着いたときの喜び。さっそく目指すくずきりを注文する。たれには黒蜜と白蜜があるが、ここはやっぱり定番の黒蜜だ。

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くずきりの容器は信玄弁当の器を摸したもの。ふたを開けると蜜とくずきりが別々の器になる。水に泳ぐ半透明のくずきりの涼しげなこと。黒蜜をまとってツルリとのどの奥に滑り落ちていく。黒蜜は濃厚なコクがあるのに、さっぱりとした後味。ああ、生き返る。残りの黒蜜まで飲み干してしまいたくなるような味わい。幸せ、幸せ。

高台寺店は祇園に比べて静かなたたずまい。ちょっと足を伸ばしても、落ち着きたいときはこちらがおすすめだ。


■本店 京都市東山区祇園町北側264番地
■午前9時〜午後6時 (土・日・祝は7時まで)毎週月曜日 (祝祭日の場合は翌日)定休
■(075)561-1818 FAX (075)525-1818

■高台寺店 京都市東山区下河原通高台寺表門前上る
■午前9時〜午後6時 (土・日・祝は7時まで) 毎週水曜日 (祝祭日の場合は翌日)定休
■(075)525-0011 FAX (075)551-0868
■http://www.kagizen.co.jp/index.htm

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祇園囃子が響く街

7月は京都にとって特別な1カ月だ。この1カ月、中京の街で祇園祭にまつわるさまざまな行事が行われる。

祇園祭といえば、7月17日の山鉾巡行がよく知られている。ほかに宵山、宵々山もそこそこ知られているかもしれない。だけど、祇園祭が1カ月も続くお祭りだということはどれぐらいの人が知っているのだろう。私自身、京都に関心を持つまでそんなことはまったく知らなかった。

祇園祭は7月1日の吉符入りに始まる。同じ日、長刀鉾に乗るお稚児さんが八坂神社にお参りする「長刀鉾町お千度」という行事も行われる。2日は京都市役所で「くじ取り式」が行われ、7月17日の山鉾巡行の順番が決まる。

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祇園祭の口火が切られたころ、各山鉾町では祇園囃子の稽古が始まる。稽古は各町会所の2階で行われるため「二階囃子」ともいわれる。この時期、夜に山鉾町を歩いていると、あちこちから祇園囃子が聞こえてくる。立ち止まって、思わず耳をかたむけたくなる、情緒あふれる京の宵だ。

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写真は昨年見学した放下鉾の二階囃子。小学生から年配者まで一堂に会してお囃子を練習する。子どもたちは町会所にやってくると、まず大人に「こんばんは」と手をついてあいさつする。忘れかけていた行儀作法が、ここではまだ受け継がれている。

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祇園囃子のお稽古が始まる。素人には同じように聞こえる祇園囃子だが、地ばやし、戻り上げ、乱れ獅子、三、五、神楽、旭など、さまざまな曲がある。楽器は太鼓と鉦と笛。鉦は若い人の担当だ。二十歳ぐらいの若者が小学生の横について、稽古を見てやっている。上の世代から、下の世代へ、こうやって伝統が伝えられていく。

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同じころ、女性たちは宵山で配るちまきの準備に忙しい。「蘇民将来之子孫也」と書かれたちまきは魔よけの印。軒につるしておくものだ。上賀茂の農家で土台が準備され、各山鉾町や八坂神社でお札が付けられる。

祇園祭が始まると梅雨の終わりも近い。夏はいよいよ本番だ。京都には煎られるような暑さがやってくる。

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